食べたり飲んだり覚書

もろもろの覚書。酒飲みで食べることが好き。酒屋見習。/文房具好き。手持ち消費し新しいペンを買うためにペン習字始めました。

ニッカウィスキー、業界向けセミナー

新しいNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」はニッカウィスキーの創業者竹鶴さんとその奥さんを題材にしたお話し。

今年はニッカウィスキー創業80年ってことで、拡販頑張ってはります。

酒販店向けのセミナーに行って来たので、その内容を覚書。

 

現在ニッカウィスキー株式会社はアサヒビールの100%子会社なので、今回のセミナーの仕切りもアサヒ。

セミナーの内容は、ウィスキーの薀蓄ではなく、主に創業秘話的な感じ。ちょうど朝ドラもスタートしたことだし、ドラマの主人公夫婦の実際のお話。店頭で朝ドラ見て買いに来たウィスキー初心者に話しかけるきっかけになるような感じのもの。

 

現在、日本には9つの蒸留所がある。

北海道余市(ニッカ)、宮城県宮城峡(ニッカ)

大阪府山崎(サントリー)、山梨県白州サントリー)、愛知県知多(サングレイン)

静岡県御殿場(ベンチャーウイスキー)

信州マルス蒸留所(本坊酒造

兵庫県明石(江井ヶ嶋酒造)

 

セミナーで9つあるって言ってたけど、去年(2013)軽井沢が閉鎖されてて、全部で8つしか見つからなかったよ・・・。

 

ニッカは北海道と宮城で、どっちも冷涼で湿潤な場所なのだとか。余市は海のそばで、宮城は山中だけど二つの川が合流する場所にある。二つの川が合流するところというのは、違う水温がぶつかるので霧が立ちやすいのだそうだ。湿潤であることが重要。

余市は北緯43度、宮城峡は北緯38度。

余市は大きな川に鮭が遡上する場所で、りんご栽培にも適したスコットランドに似た風土。

余談だがこの余市のリンゴ園は、明治維新で敗北した会津藩の人たちが入植して切り開いた畑なのだとか。

 

余市ではモルトウィスキー(大麦)、宮城峡ではモルトウィスキーとグレンウィスキー(トウモロコシ)を蒸留。

余市は男性的で力強いウィスキーが、宮城峡では女性的で華やかなウィスキーが作られている。

この差は蒸溜に使用する装置や方式の違い、熟成環境の違いなどによる。

 

1972年ノースランド丸瓶が発売された。

 

今年新発売の「ザ ニッカ 12年」は、クラッシックブレンドで、モルトの比率が60%と高い。

(従来品の中心はモルト20%くらい)

 

ニッカの創業者竹鶴政孝は、広島県の造り酒屋の三男。竹鶴本家ではなく分家。大阪高等工業学校(現:大阪大学工学部)の醸造学科卒。洋酒を学ぶ。

1916年、洋酒製造を行っていた摂津酒造に入社。(常務が大阪高等工業高校の先輩、岩井喜一郎)

1918年、本格ウィスキーを学びにスコットランドに留学。

1920年、帰国。習得した内容を岩井に提出したレポートがいわゆる「竹鶴ノート」。

1922年、第一次世界大戦の影響で摂津酒造が本格ウィスキー作りを断念したため、退職。

1923年、摂津酒造に赤玉ポートワインを製造委託していた寿屋(のちのサントリー)に10年契約で入社。摂津酒造の製品の質が高かったことから、寿屋の鳥井信治郎と面識があり、またスコットランドに技師の派遣を要請したところ、竹鶴の名があがったことから寿屋の蒸留所の設立と、技師の育成を任された。

1924年、山崎蒸留所設立。竹鶴は北海道を候補地にあげたが、鳥井は工場は近くにあることが愛される新しい洋酒の必須条件であるとしたため、山崎となる。当時200万円、現在の金額にすると80億~100億円をかけて設立。

1925年、スコットランドへ派遣

1929年、サントリーウィスキー白札を発売(現在のサントリーホワイト)。国産ウィスキー第一号。

1931年、スコットランド、フランスへ再度派遣

1934年、10年の契約を終えて退社。独立へ。

 

1934年、北海道余市大日本果汁株式会社設立。

ウィスキーは製造から販売まで時間がかかり(熟成)、その間をつなぐため、余市のリンゴ果汁を販売する会社を設立した。

大日本果汁→日果→ニッカ

1940年、第一号ニッカウィスキーを発売。

 

 これ全部戦前なのよね。

すごい時代だな~

 

ニッカのエンブレム、両側の動物は狛犬。真ん中に山中鹿之助(戦国武将)の兜と元禄模様なんだって。

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